2012年12月11日火曜日

書評:ケーキの丸かじり(東海林さだお,2003)


言わずもがな,東海林さだおの丸かじりシリーズである。

本書,2003年発行と古いのだが,まあ古くささは感じさせないのでよいとしよう。

丸かじりシリーズの魅力は,受ける人によってそれぞれ異なるのであろうが,私にとっては「普段何も考えずに過ごすことを,一つ一つ分析する」描写に特に魅かれる。料理の「おいしさ」というものを,いちいち個別の行程に分けてくれるのである。実に食べ物を見る目が変える書物である。

例えば,水餃子を食べる過程を以下のとおり分析している。

「まずモッチリと茹だった皮がおいしい。」
「注文の都度のばす皮は,打ち立てのうどんそのもので,もちもちしてコシがある。具を包んでいる部分は皮が薄くてシコシコしたうどんの味。合わせ目のヒダのところは皮が厚くなっていて熱が通りにくい分だけスパゲティのアルデンテ状態。」
「少し芯があって噛み応えがあり,ここの部分を主食として味わい,薄い皮と具の部分をおかずとして味わう。」
「口の中で主食とおかずを噛み分ける。噛み分けたのち合体させる。」
「アグアグと合体させているとき,うどんとスイトンとワンタンをいっしょに食べているような気分になり,だけど餃子だかんな,そこんとこ忘れてしまっては困るよ,と,豚肉のみじん切りとキャベツと白菜とニラがジンワリと念を押しにくる。」


長々と書いたが,この分析の視点というものは,何も食物に限ったことではない。通常の読書であったり他の趣味であったり,他のものにも応用可能である。というか応用させて行きたい。


また,わかっちゃいるけれども,あえて言葉にしないことに着目する着眼点も魅力の一つである。

「イチゴを取り去った跡は,白い生クリームが剝げて下のスポンジが現れ,その傷口が痛々しい。すまぬ,と思う。」


雑煮というある意味神格化されがちな食べ物に対するメスも容赦が無い。

「普通の日に食べてみると,雑煮の貧しさがつくづくよくわかる。正月という舞台装置があるから雑煮は主役を張れるのだ。」
「餅は水褄動物ではない。もともと陸で生きていく食べ物だ。だからぼくはツユに没している餅を見ると気の毒でならない。」


プラムを握り具合という変化球から攻める姿勢にもグッとくる。

「プラムは握り具合がいい。握り具合がいい,が果物に対する賛辞にとなるのかどうかはともかくとして,とにかく握って楽しい。ちょうどゴルフボールぐらいの大きさで,プラム独特の硬さが手に心地よい。」


また,一般的な心理分析を,食べ物に応用させる手はずも見事なものがある。

「冷静でスタートし,やがて興奮機に至り,過大な期待とともに購入期を迎え,落胆期を経て強引な納得をもって幕を下ろす」福袋を,刺身の盛り合わせであったり,ニシンの塩焼き(カズノコかシラコ)で比較している。

「梅まつりには甘酒が似合う。・・・湯気の立つ大きな寸胴鍋から,大きなヒシャクで紙のコップについでくれる。このヒシャクがいい。」

「回転寿司は全員うち揃った姿で,同じ高さで,同じ容器で回っているせいか,なにかこう,粛々と回っているという雰囲気であるが,回転飲茶は高さが高い。むろん低いのもあるが,うんと高いのや,少し高いのがゴトゴト揺れながら列をなして回ってくるので,京都や飛騨などのやまぼこ巡行といった趣がある。」


とまあ難しく書きましたが,本編そのものは非常に読みやすく,気分転換にちょうどいい。その上,何かしら学ぶところもあるので,四半期に一度くらいは読みたくなる本です。

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